埼玉西武ライオンズに所属している内野手の山川穂高選手。
明るく周りを楽しませるキャラクターですが、どのような幼少期を過ごしてきたのでしょうか?
今回は山川選手がどのように育ってきたのか調査しました。
山川穂高選手のプロフィール
名前:山川 穂高(やまかわ ほたか)
生年月日:1991年11月23日
出身地:沖縄県那覇市
身長:176cm
体重:103kg
所属チーム:埼玉西武ライオンズ
当時の友人に誘われたのがきっかけで、小学4年生で野球を始めた山川選手。
103kgという体格から地元沖縄の豚にちなんで愛称は「アグー」。
元チームメイトの森友哉選手からは自分より年下でありながら「おい、デブ」などとからかわれています。
西武ライオンズの選手名鑑には「プロ野球選手として心がけていること」として「鼻毛が出ないようにすること」と答えたり、2023年の目標は「あいみょんに会いたい」と書かれていました。
またゆりやんレトリィバァさんの「調子乗っちゃって」パフォーマンスや大相撲力士の御嶽海と顔が似ていることから「どすこい」パフォーマンスを披露したりと、サービス精神に溢れた明るい選手です。
いつも明るく振る舞っている山川穂高選手ですが、育ちはヘビーなものでした。
山川穂高選手の育ちは?
沖縄県那覇市で生まれ育った山川選手。
山川選手が生まれてすぐにご両親は離婚したため、母親の喜代子さんが女手ひとつで育ててくれました。
両親が離婚をすると一般的には月に1度の面会交流がありますが、山川選手は父親と面会していなかったのかもしれません。
山川選手が語るエピソードはどれも母親のことばかりなので、父親のことは記憶にないのでしょう。
そして山川選手は兄弟がおらず、一人っ子です。
母親と2人暮らしで育ったからこそ、親子の絆が強いのかもしれませんね。
山川選手は母親のことを「巨人の星の明子姉ちゃんみたいな人」だといい、黙って見守ってくれる人なんだとか!
山川選手が幼いときに自分で靴を履こうとしていると、母親は急かしたりせずに何も言わず自分でできるまでずっと待っていたそうです。
雨が降っていても、怒ることなくじっと見ていたといいます。
この見守る子育ては子供の自主性を育むのに重要とされていますが、実践するのはなかなか難しいのが現実です。
子供ができるのを待っていたら時間がかかったり、挙句の果てには上手くできなくてグズることもあるからです。
特に山川選手の母親は母子家庭ということで、働きながら家事、育児とすべて一人でやらなければならないので負担は大きかったはずです。
そんな中でもイライラせずに、山川選手の成長のためにと見守っていたなんて凄いとしか言いようがありません!
きっと自立した立派な大人になってほしいと思い、イライラする気持ちや急かしたくなる気持ちをぐっと堪えて見守ることに徹していたのでしょう。
そんな母親の子育ての甲斐があり、山川選手は厳しいプロ野球の道に進めたのかもしれませんね。
さらに山川選手の生い立ちも調べてみました。
山川穂高選手の生い立ちは?
意外な過去がある山川選手の生い立ちもまとめてみました。
習い事をたくさんしていた小学生時代
山川選手は母子家庭で育ちましたが、たくさんの習い事を経験していました。
- 水泳(幼少期)
- 書道(5歳から中学3年生)
- アイススケート(小学1年生~小学4年生)
- 野球(小学4年生~)
- 塾(中学時代)
- ピアノ(高校野球引退後)
小学校1年生から4年生まではアイススケートを習っていましたが、小学校3年生のときに仲がよかった友人に誘われて野球を始めました。
書道以外は山川選手がやりたいと言って始めたそうです。
ほとんど起こられたことがないという優しい母親でしたが、書道に関しては厳しかったといいます。
書道で八段を取ったら辞めても良いと言われ、八段を取るまで続けたそうですが今となってはサインを書くときに役立つため習っていてよかったと明かしています。
山川選手はいろいろなスポーツに触れた経験も野球に活かされているのでしょう。
習い事はお金も時間もかかりますが、そこを惜しまずにやらせてあげられるなんてすごいですね!
バレーボールと野球の二刀流だった中学時代
小学3年生で野球を始めた山川選手は、中学になると「チームSOLA沖縄」という硬式クラブチームに所属しました。
ですが、学校の部活はバレーボール部に加入。
最初は友達と遊ぶついでの暇つぶし程度の気持ちでしたが、いつの間にかにバレーボールにも本気に!
月曜日~金曜日の朝練と土日の野球の練習後にもバレーボールの練習をしていたそうです。
その甲斐もあり、入部して1ヶ月でレギューラー入を果たしました!
センスもあるのでしょうが、人一倍努力をするタイプなのでしょう!
初ホームランを打った高校時代
沖縄県立中部商業高校出身の山川選手。
2度の甲子園出場をしている学校ですが、山川選手が高校生の時には甲子園に出場することはできませんでした。
上下関係が厳しい学校であったため1年生の時はベンチにすら入れてもらうことができず、辛くて野球を辞めたいとも思ったことがあったそうです。
ですが1年生のみが出場する大会で4番を任され、人生初のホームランを打つことに!
これがきっかけで野球を続ける決心をしたと言います。
そして練習にもさらに熱が入り一塁手としてだけでなく外野手としても試合に出場し、高校2年生の秋には4番を務めることになりました。
高校3年生の夏には沖縄県大会の決勝まで進みましたが、興南高校に2-4で敗れ甲子園出場とはなりませんでした。
このときの経験がなければ今の山川選手は存在していなかったかもしれませんね。
スカウトで入った大学時代
高校で野球を辞めるつもりだった山川選手ですが、先程の人生初のホームランを見た富士大学の野球部の監督からスカウトを受け、富士大学の硬式野球部に入部することに。
この時、監督からは1年生から4番を打たせること、必ずプロ入りさせることを約束し、土下座までされたといいます。
山川選手に対してかなりの惚れ込んでいたのでしょう。
約束通り、大学1年生の時から4番となり主力選手として活躍しました。
監督の見る目は正しく、日米大学野球選手権やアジア野球選手権の日本代表にまで選ばれる選手へと成長。
2013年にはドラフト2位で埼玉西武ライオンズに指名され入団しています。
野球一筋の順風満帆な生い立ちかと思いきや様々な苦難を乗り越えていたのですね。
まとめ
今回は山川穂高選手がどのように育ってきたのか生い立ちを調査しました。
山川選手が生まれてすぐに両親は離婚し、母子家庭で育ったようです。
そのため、母親に対する感謝の気持は人一倍強いのでした。
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